因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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国府の三堂 「神社」 2 


[四廃寺跡]

岡益廃寺跡

石堂所在の森にあり、昭和の始め頃から石堂の隣接地で古瓦や礎石が見つかったことから、寺跡として認められるようになりました。石堂背後の林の中で掘り込み地業の跡が検出され、この金堂跡と思われるところの北辺から約7m北側では掘立柱建物跡が見つかり、講堂跡ではないかと考えられています。石堂が金堂跡のすぐ東に位置しているため発掘調査はできていませんが、塔跡の可能性も示唆されています。これらの調査の結果から、岡益廃寺は7世紀末~8世紀初頭に創建され、8世紀前半に講堂が整備され盛期を迎えて9世紀代に廃絶したものと考察されています。


源門寺廃寺跡

中河原に源門寺という寺の名前は残っていますが、詳しいことは分かっていません。現在、源門寺の心礎といわれる遺構は、元の位置より80mほど下流にある妙見堂の前に移動されていますが、旧位置は、袋川上流右岸に当たる中河原字源門寺谷口になります。山が川にせまり大きな平地は見られない土地であり、心礎の旧位置も山ぎわに幅30mほど小平地が見られるのみで、七堂伽藍の可能性はなく、塔を重要施設とした特異な仏教施設だったのではないかと考えられています。
心礎規模は、長径1.7mほどの自然石に径47cm、探さ15cmの柱孔が穿たれ、径73cmほどの円形柱座が浮刻されていて舎利孔はありません。また、旧場所で一個の須恵器が収集されています。平底を思わせる長頸壷(瓶)であり、形状から平安初頭のものと推定される唯一の資料となっています。


等ヶ坪廃寺跡

袋川左岸の玉鉾地区西端、上ノ山の裾部沖積地上に位置し、氾濫時の直撃を受けない安定した場所にあります。瓦・鴟尾・礎石等が出土し、堂塔に直接結びつく礎石数個の発見がありました。出土した瓦類の内、軒丸瓦の系統が奈良県の川原寺に繋がり、また鴟尾は白鳳期の特徴をあらわし、等ヶ坪廃寺が白鳳期に創建され畿内文化と深い関わりがあったことを示唆する貴重な資料となっています。穀倉地帯法美平野の東端という高燥な位置からして、法美郡にあって当時最も重要な寺院であり、郡司級の在地豪族の造営された郡寺「法美寺」ではないかとも推察されています。


栃本廃寺跡

二つの塔心礎が残る貴重な寺跡として、昭和10年に塔跡が国の史跡に指定されました。古代因幡国の国府からおよそ14km山間部へ入った栃本の集落より、奥の谷あいに拓かれた狭い平地にあり、大石川の右岸に立地します。塔の北寄りに、明治時代まで水田中に土壇状の方形の高まりがあったと伝えられていること、さらに約27m離れて2個の心柱の礎石が存在することや、地名に塔ノ垣・下塔ノ垣が残っていることから、瓦の出土はないものの、かつてこの地に寺院が建っていたと考えられていました。
また、この寺院の性格については、7世紀末に因幡国が銅鉱を献じたとする『続日本紀』の記事や、位置がかつて銅を生産した岩美町荒金に近いことから、法美郡の有力郷族・伊福吉部氏に関連した寺院であるとの説と、僧侶の修業や信仰本位に形成された山寺ではないかとの説があります。