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大伴家持と万葉の里


@大伴家持と万葉集

大伴家持大伴家持


大伴家持の歌碑大伴家持の歌碑

万葉集』とは、仁徳天皇から天平宝字3年(759)まで長歌・短歌・施頭歌など4516首を収録した全20巻の歌集です。作品の時代は通常4期に分けられ、撰者については諸説あって詳しくはわかっていませんが、現在の型に近いものに編集したのは大伴家持であると考えられています。作者は天皇から貴族、武士、農民に至るまで多岐にわたり、地域も全国各地に広がっています。額田王や山部赤人、柿本人麻呂、山上憶良など多くの歌人が個人の目覚めと自然の風物を素朴に、且つ大らかに歌い上げていますが、その他にも旅の歌・恋愛の歌・宴会の歌・親子の愛情をあらわす歌・死者を弔う歌などがあります。
大伴家持は養老2年(718)頃に大伴旅人の子として生まれ、衰えつつあった大伴氏の首長として種々困難に遭遇し、藤原氏との対立派貴族の抗争の中にありました。生涯に6度の地方長官を経験し、最初は越中守(29歳)、次に因幡守(41歳)、薩摩守(47歳)、相模守(57歳)、伊勢守(59歳)、最後に陸奥按察使鎮守将軍(65歳)として赴任しています。因幡守に任じられたのは、時の淳仁天皇つまり大炊王を廃して別の王を擁立しようとした橘奈良麻呂のクーデター計画が失敗し、この企てに大伴家が加担したとして藤原仲麻呂らによって行われた左遷人事であったといわれています。


A因幡赴任時代 

天平宝字2年(758)6月に因幡国守に遷任され、赴任してきました。同年8月1日に孝謙天皇が大炊王に譲位して第47代淳仁天皇として即位され、年が明けた天平宝字3年正月元日の朝賀の日に、家持は雪が降り積もる因幡国庁において新年を寿ぎ天皇を讃える歌を詠んでいます。

   新しき 年のはじめの初春の 今日降る雪の いや重け吉事

そしてこの歌を『万葉集』20巻全4516首の最後を飾る歌としました。また、家持が因幡国で詠んだ唯一の歌ともいわれています。


B富山(高岡)の万葉の里

天平10年(738)に初めて内舎人として朝廷に出仕し、その後、従五位下に叙せられて天平18年(746)3月には宮内少輔となり、同年6月に越中守に任じられました。8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任し、通常の国守としての任務のほか、東大寺の寺田占定などの任がありました。この越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります。
越中国守の居館は二上山を背にし、射水川に臨む高台にあり、奈呉海・三島野・石瀬野を隔てて立山連峰を望むことができます。家持はここで四季折々の風物を歌題とし、漢詩文を基盤とした歌を詠みますが、次第に四季の風物を素材として、自分の思いを歌う王朝和歌的な歌に近づいていきます。『万葉集』で確認できる27年間の歌歴と470余首のうち、越中時代5年間の歌数が223首を占めます。それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。その関係で越中は畿内の万葉故地となり、さらに越中万葉歌325首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料ともなっています。また、家持にとって越中国赴任時代は、歌人としての表現力が大きく飛躍した上に、歌風にも著しい変化が生まれ、歌人として新しい境地を開いた時代といわれています。


C在原行平といなば山はどこだ

在原行平の歌碑在原行平の歌碑


在原行平の塚在原行平の塚

二人の姫と過ごした因幡赴任時代  
斉衡2年(855)、在原行平は因幡の国の国守を命ぜられ単身赴任する途中、須磨の浦で潮汲む美しい姉妹の松風・村雨を見染め、同行させました。百人一首の16番歌として知られる稲葉山を詠った歌は、因幡国へ出発する前に都で妻との別れを惜しんで歌ったものとする説と、松風・村雨姉妹と4年間稲葉山の麓で過ごした日々と二人を残して帰任する際の別れを惜しんで詠んだ歌とする説があります。

在原行平の塚
稲葉山から上野へ抜ける山道を進み、しいたけ団地を過ぎた小丘の雑木林の中に「在原行平の墓」と伝承されている塚があり、宝篋印塔が建てられています。しかし、行平は寛平5年(895)に京都で亡くなっており、この塚は因幡にいた行平を懐かしく思った土地の人たちが造ったものと思われています。