因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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千代川・袋川の水害 【明治〜大正】


@明治18年(1885)の洪水

山陰地方では6月28日から雨降りが続き、7月1日になって東北の風が激しくなり夜半から本格的な暴風雨にかわりました。この暴風雨により、千代川流域では各所で堤防が切れたり橋や家が流され、田畑が土砂に埋まるという被害が甚大でした。


A明治26年(1893)の洪水

西日本一帯を襲った台風は、10月14日の夜明け前から次第に風雨が激しくなり、午後2時頃には瞬間風速35メートルを記録しました。夕方になると風力は衰えましたが雨は激しく翌日も降り続き、16日午後2時までの総雨量は350ミリにも達しました。各地で堤防が決壊して浸水は2日間にも及びましたが、救護しようとしても強い風に遮られて舟を通すこともできない状況だったといわれています。


B大正元年(1912)9月の洪水

大正元年の洪水 大正元年の洪水
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9月23日におきた大洪水は、午前2時頃から風雨が更に強くなり、濁流はまず古市新道方面を襲い、勢いにのって市街地と富桑方面を襲って、午後2時頃には見渡す限り一面の泥海となりました。千代川の堤防は国安、叶、向国安、下味野で決壊し、行徳方面にも決壊がありました。袋川は寺町から鹿野橋まで3ヶ所で決壊して、新橋、出合橋、川下橋が流失し、若桜橋が浮き上がり、千代川の安長橋(現八千代橋上流に木橋があった)が流失しました。不意打ちの洪水であったため、県下の死者102名、傷者8名、行方不明2名、流失家屋136六戸、土屋57棟、納屋187棟、その他流失323棟、床上浸水9,959戸、床下浸水6,080戸等の被害を受けました。市は3日間の炊出しを行い、吉村徳平氏から白米40石の提供があったので困窮者に米券を交付するなど応急措置をするとともに、市中路上の大掃除、各戸への石灰無料配布など行い、人手不足のため宇倍野青年団が無料奉仕なども行いました。


C大正7年(1918)9月の洪水

大正7年の洪水 大正7年の洪水
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大正7年9月13日夜中から雨が激しく、翌14日10時には暴風雨となって夜中の洪水となり、16日に至るまでほとんどが水底に没しました。冠水は約2mから4mにまでおよび、国安の堤防が崩れ、美歎の水源地が決壊して、軍隊までもが出動して救援活動にあたりました。鉄道も不通となり、鳥取-浜村間は27日に開通しましたが、鳥取以東の被害が大きく、山陰線の全通は翌月10日頃になりました。袋川の橋も流れて、若桜橋と智頭橋は仮橋が架かりましたが、両岸に針金入りの網を渡し、それに小舟をくくりつけて、乗る人が綱を手操るという渡しが長く続きました。


D大正12年(1923)9月の洪水

大正12年の洪水 大正12年の洪水
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千代川改修と新袋川の工事は大正12年度から14年間の継続事業として行われることになりましたが、9月1日の関東大震災による復興という大事業に当面した山本内閣はそちらを緊急課題として千代川改修は年限を延長して一時中止されました。その同じ月の15日、千代川はまたもや氾濫しました。13日から降り続いた雨は15日には北風をともない、午後には千代川・袋川とも最高水位に達し、叶・島・長谷・今在家の堤防が切れて、死者11人、家屋流失及び崩壊57戸、浸水は7,151戸に及び、田畑の被害も甚大でした。