因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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五水の概要


高麗水

文録2年(1593)癸巳8月に洪水がありました。7月末から太陽を雲霧が覆って雨が止む間なく降り、8月の中頃からは豪雨が続き、水が漲り湧く音は幾多の雷のように聞こえるほどで、波は逆巻いて天に突き上げていました。人々は慌てふためいて大騒ぎとなり、家の屋根に登ったり、山の上へ逃げようとしましたが、道がなく溺死した人や牛馬も多く、路頭に倒れた死体で道が塞がるほどだったといわれています。
この年、太閤豊臣秀吉は朝鮮征討を行い、国中の壮年や若者は徴募に応じて皆朝鮮へ向い征討に従事していたので、国に残っているのは老人や女性、子供ばかりだったために被害が特に大きく、また、洪水時や復興の作業もはかどらなかったものと思われます。そのような年に起きた洪水なので、地元の人達はこの洪水のことを「高麗水」と呼ぶようになりました。


遷封水

寛永12年(1635)乙亥8月12日に洪水がありました。7月下旬より雨が降りはじめて8月なっても止む間なく降りしきり、北風が激しく吹き荒れ、水が河口から逆流したために河水は捌けられず、城下の外郭をなす袋川の堤に溢れ込んだり堤を壊したりして勢いよく周辺へ流れ出しました。城下は水に浸かり、その深さは8尺~1丈(約2.4~3m)を越す場所もありました。水かさが増したのが日暮れだったので、溺死者が200人ほど出てしまい、あるいは家財を流失して、破産した人が多かったと伝えられています。また、池田光政公と光仲公との国替えから4年目のことであったので、付き従ってきた士族や商人たちは苦労が大きく、溺死者も多かったようです。また、お国替えの後すぐに起こった洪水であることから、「遷封水」と呼ばれています。
また、田んぼは泥に埋まり、食物をはじめ醤油や薪、油、炭に至るまですべて泥につかり、炊事をしようにもきれいな水がなく、洪水後も飢渇に苦しんだといわれています。


種稲水

寛文13年(1673)または改元のため延宝癸丑5月14日に洪水がありました。前日からの暴雨はまるで滝を洗い流すようで、たった二日間の雨にも関わらず、水が満ちて勢い溢れ湧く水音は激しい雷鳴のようでした。洪水の出端には北風が激しく吹きまくり、河口付近の流れを邪魔して、さらに水かさが増しました。直接、外郭である袋川の堤防にぶち当り、堤の低い箇所から水が溢れて城下に流れ込みましたが、最終的に堤は破れたり崩れたりせずに済みました。しかし、城下一面に深さ3~5尺(約0.9~1.5m)の水溜まりができ、堤外は1丈(約3m)ほどにも達しました。堤外では特に袋川の出水が多くて水勢も強くなり、鋳物師橋、鞋町橋(現存せず)、出合橋、船宮の橋も全て流れ落ちました。
また、やっと稲を植え終わったと同時の洪水だったので、田んぼへの被害も大きいものでした。5月の種稲時に起こったので、この洪水は「種稲水」と呼ばれています。 


丁酉水

享保14年(1729)丁酉7月15日に洪水がありました。丁酉に起こった洪水なので、「丁酉水」と呼ばれています。前日から風雨が激しく、河水は水かさが増して横に幅を広くして流れていましたが、この水の勢いは千代川が強く、まず国安村の堤を破り、一文字に若桜橋の向う渡辺源七宅の外屋(ながや)に突き当って押し流したので、その外屋は若桜橋に横たわり、橋の上流は激しい流れになってたちまち水かさが増し、次に最勝院薬師の堤を破って崩れかけた水勢は矢のように大工町の釜屋の宅につき当たりました。若桜橋も結局力尽きて押し流されたので、智頭橋、鹿野橋、鋳物師橋、出合橋の5橋は一つも残らず流されました。堤も所々破れて城下は満水し、浅いところでは1、2尺(約0.3~0.6m)、水の深いところでは6、7尺(約1.8~2.1m)あり、この年は雨がしばしば降って8月、9月も大水があり、五穀は実らず国中困窮したといわれています。


乙卯水

寛政7年(1795)乙卯8月29日、降水が逆行して城下に氾濫しました。23日から雨が降りはじめ、ついに28日に袋川が満水し、翌日の朝には川の水かさが増えて堤上を溢れ、惣門内に入っていきました。この水は堤内で4、5尺(約1.2~1.5m)から1丈(約3m)を越した場所もあり、城内では南門から北門に通じる道の中央まで注いで、中の門の内門番のいる所は平地から3尺強(約0.9m)あまり、北門の内は5尺(約1.5m)ほどにも及びました。
外郭である袋川の堤は所々破れて、その堤の下にある家屋の多くが壊れました。鹿野橋の堤は平地と同じように打ち崩され、智頭橋向いの浄宗寺の壁が押し流されて智頭橋に横たわると河水は激しさを増して橋を押し流したので、それ以下の鹿野橋、鋳物師橋、出合橋および船宮の橋はすべて流れ落ちましたが、乗船所の下、円山の茶店の上手あたりに止まって海には出ませんでした。一本橋と若桜橋は無事でした。惣門外でも流失した民家は数え切れないほどで、溺れて流れていってしまった牛馬犬鶏も多く、溺死者も600人を超える勢いでした。被害総額はおよそ21万石相当と思われ、池田家32万石の3分の2の損失額に及んだといわれています。