因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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袋川の水害との斗いの歴史を伝える塚の碑


千代川改修之碑 安長堤防

千代川改修之碑 千代川改修之碑
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碑文より
『千代川は因幡平野を潤し、昔は筏や舟便にも利用されて流域住民に恩恵を与えたが、その半面、しばしば氾濫して住民を苦しめた。大正七年の大洪水はとくにその被害が大きく、沿岸一市十七箇町村は結束して連合治水会を組織し、政府に治水策を要望するに至ったが、大正十年には下流の河身変更を中心とする千代川改修期成同盟会に発展し党派をこえた全住民の熱烈な運動が展開されることになった。運動は功を奏して、大正十二年、千代川改修は国の直轄事業として行われることになり、その後さらに曲折はあったが、昭和六年、秋里・江津の水田を掘さくして直線に流す新千代川が通水し、つづいて新袋川も完成して、下流住民は一応水禍の不安から免れることを得、鳥取市の産業もようやく安定した発展へと歩み出すことができるに至った。更に多年の宿願である河口の改修が終れば、千代川の改修はほぼ完成する。
いまや河原町から鳥取港まで改修された千代川を清流は走り、堤防下には美しい市民運動場が生まれ鳥取市勢はその両岸に着実に発展して、荒狂った千代川は昔語りとなろうとしているが、ここに至るまでの先覚者の努力と沿岸住民、とくに鳥取市民の団結による強力な運動の成果が、千代川の流れが絶えないごとく、後々までもたたえつづけられることを念願して、ここに改修記念碑を建立する。時は改修事業が着手されてより満五十年、鳥取市制実施八十五年に当る。

  昭和四十九年十月一日
                           千代川改修記念碑建立実行委員会
                           会長 鳥取市長 金田裕夫』


浜坂の溺死海会塔

溺死海会塔 溺死海会塔
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袋川と千代川とのかつての合流点であった浜坂に、溺死海会塔が建てられています。寛政7年(1795)の乙卯水で亡くなった人々の供養塔で、溺死した人々の遺体がこの前に流れ着き、悲惨な光景が広がっていました。その七回忌法要を営んだ折り、享和元年(1801)に寺僧規外が建立したものです。高さ約2mの玄武岩には表面に「溺死海会塔」と刻まれ、両側面と裏面にびっしりと記された碑文は水害の悲惨さを伝え、未然の予防を警告しています。これらは鳥取藩の儒者伊藤惟猷(左内)の撰文と、筆力雄渾といわれた堀徴(玄渓)による碑銘といわれています。