因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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五水記に記された恐ろしさ


生きるとも死ぬとも二人一緒 〜乙卯水・貞女の鑑“豊”の物語〜

本町3丁目の横丁に惣七とその妻・豊の夫婦が住んでいました。惣七は長い間、病床にあり、豊は看病の傍ら手伝い仕事で生計を立てていました。この洪水でも、まず惣七を2階に登らせ自分も上がりましたが、次第に2階にも水が入り込んできた時、偶然助け船がきました。しかし、病気の惣七は船に乗り込むことを拒んだため、船頭は豊だけでも乗せようとしましたが、豊は惣七を抱いて「生きるのも死ぬのも二人一緒に」と言ったので、船は漕ぎ去ってしまいました。家は無事で、水が引いた後、二人は他に移り住みましたが、豊の誠実な心根と行動は神にも通じると誰彼ともなく噂が広まりました。


〜憐れ・三郎左衛門〜  ―遷封水・眼前で幼女を溺死させた憐れ― 

士族の三郎左衛門は慣れない洪水だったため、とりあえず梁の上に横木を渡して老母と妻子を登らせて自分も登りました。両手で老母と幼女を抱えていましたが、やがて老母がめまいを起こして梁の上から落ちました。三郎左衛門は水中を手探りして片手で老母を梁の上へ引き上げました。しかし、暗い中その騒ぎで幼女も落ちてしまいましたが、幼女を助けようとすると老母がまた落ちそうになったため、眼前で幼女を死なせてしまいました。


〜九死に一生を得た数奇な運命の紋六〜

新茶屋にいた夫婦が享保の水(丁酉水)で家の屋根に乗って流されて円山の下まで流された時、風向きが西に変わって家は善久寺の前を流れて円護寺村に漂着し、村民に助けられました。
婦人は妊娠中で臨月だったため円護寺村で男子を無事出産し、その子は紋六と名付けられました。この年、紋六は60歳余になり、また、寛政の水(乙卯水)で妻と娘の3人で家ごと流されましたが、浜坂村の上の小松原の側で船に助け上げられました。


麗水・洪水位跡

●太鼓御門の石壁(石垣)…この標高まで溢水してきた。
●八頭郡の私部の「水超」…という小高い山の最も低い所を水が溢れ   て越えたという。現在でも松の木を植えてその目印とし ている。
●法美郡の岡益の「水超」
●「流れ荒神」…高草郡の松上、河内村の山の頂に荒神の祠がある。
  高麗水で山奥から流され、山の中腹の樹の枝に掛かっていたのを里人  が現在の山頂に安置したもので「流れ荒神」と呼ばれている。


梶取岩伝説 〜高麗水の浸水位を伝える〜

鹿野町、毛無山の八合目あたりに「楫取り岩」と呼ばれる独立した巨岩があります。言い伝えでは、文禄2年(1593)8月に起こった高麗水の時に、この石に船を繋いだため、その名がつけられ、現在では楫取明神として奉られています。ただし、楫取と名付けてさらに明神様として崇拝している由来は別にあるのではないかとも考えられています。


賀露明神を生土神とする四郎右衛門

寛文13年5月の洪水で高草郡南隈村の百姓一家が皆屋根に乗ったまま流れ、賀露の港口を過ぎて海に出てしまいましたが、その一家は離島(一説に鳥が島)に漂着し、助かりました。婦人は妊娠中で臨月でしたので、島の上で無事に男子を出産し、3日経って賀露港から救助船がきてその一家は故郷に帰ることができました。その子は成人して鳥取に出て大工となり、名前を四郎右衛門と名乗りました。後には香川飛弾の足軽となって、川外の大工町に居住しました。彼が一生、賀露明神を生土神として祭ったのは、離島で生れたためです。この四郎右衛門の孫を惣吉といい、同じく川外の大工町に居住して、大工をしていると伝えられています。


藤綱が切り破った水溜まりの堤

安長村湖山街道の南側に深い水溜りが二つありました。里の人たちはこれを留堀と呼んでいました。この洪水で安長村の嵐嘴の堤に水が溢れるのを恐れ、もしも、ここから水が村へ溢れたら安長村の人々は逃げ道を失って一人も助からないと思い、藤綱という相撲取りがたった一人で嵐觜の堤を伝っていき、その水溜まりの上手にあたる場所の堤を切落し破りました。それ以後、千代川の流れは崩れたので、河水の勢いが多少減ったといわれています。その河水の浸かったところが大きな水溜まりとなりました。後には自然にできた澤沼のようになって水草が生えて魚や亀もいましたが、近年次第に埋められ、現在では以前の大きさの半分になってしまいました。


十二才の時に若桜橋が落ちたのを見た老女

ある老女は、丁酉水は老女が12才の時に起こった洪水で、若桜橋の向う本浄寺の前町に住んでいて、日暮れから父母に助けられて二階に上がったことと、若桜橋が落ちたことはしっかり覚えていると話したといいます。その他のことは記憶していないけれども、渡辺家の外屋が流れてきて橋に横たわったので、その隣側の民家は地震のように揺れ、水かさもすぐに五、六寸(約15〜18cm)も増えたため、今はやむをえないと父母とも念仏を唱えるようにいうので、これは、もうこれで死ぬのだと悲しくなり、河上を見ると、水は渦を巻いて音をたてていました。その勢いは武宮の境内の堤を破り崩し、内外屋を押し壊して、また、上流から小屋が流れてきて、渡辺家の外屋と並んで橋をべたっと塞いだので、すぐに若桜橋を押し流して智頭橋にかかり、これもひとたまりもなく押し流されてしまったと、現在も見ているように覚えていると語りました。