江戸時代、八千代町上・中土師地区は川が土地より低い所を流れていたため、田畑に利用できませんでした。 このため、水不足で米もできず、人々は大変こまっていました。これを見かねた忠左衛門は、上流に井手をつくって用水で土師まで水を引くことにしました。

 庄屋は「村の人数でできるような工事ではない」と工事の中止を決めました。しかし、忠左衛門が聞き入れなかったため「農民をまどわす者」として捕らえ、手枷、足枷のほか首枷までしました。 それでも忠左衛門は意志をまげず、たった一人でノミとツチをもって無謀ともいえる工事にとりかかりました。 そして、ようやく水路が1キロメートル完成しましたが、水が流れません。

忠左衛門による工事のもようを伝える絵馬
[土師民俗資料館所蔵]
 農民の忠左衛門には設計も測量の知識もなく、ましてや現在のような機械もない時代に、あきらめずに400メートルも続く絶壁の鼻ぐり岩に立ち向かったのです。 忠左衛門は山に登って霧を観察したり、夜にたいまつをつけて土地の高低を調べたりして工事を続けました。また、持っていた自分の田を売って工事の費用にしましたが、それでも完成しません。 二度目の夏をむかえるころには、汗とけずる石の粉で首がすり切れて、声もかすれてしまいました。そのため、村人は「咽声忠左衛門」と呼ぶようになりました。

咽声神社
 ところが、隣村の庄屋五郎右衛門が忠左衛門の事を聞いて感激し、援助を申し出ました。この手助けのおかげで、開始から3年で工事は完成しました。 長さ6キロメートル、幅1.8メートルの水路に水が流れ、50ヘクタールの水田をうるおすことができました。

 村人は今までの忠左衛門への仕打ちを恥じ、あらためて恩人として忠左衛門を尊敬し、その功績をたたえて石碑をつくりました。 300年以上たった今も記念公園内の咽声神社が、私たちに恩人の偉業を伝えています。
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