因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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美歎水源物語

鳥取の水道のための水源地については、明治30年代後半よりさまざまな検討が行なわれてきました。

@田中信慶の多鯰ヶ池水源地案

明治36年8月、鳥取市薮片原の開業医・田中信慶は、私費を投じて多鯰ケ池・鳥取市間の地形地質を調査測量し、水道敷設の計画書を市に提出しました。多鯰ヶ池を水源地として、久松山の麓に配水池を設け、鳥取市とその付近に給水する案です。結果的には多鯰ケ他の水位が低いことや高額な工事費のため立ち消えになりましたが、上水道構想をまとめた最初のものです。


A小林柏次郎の大茅川案

明治41年7月、鳥取市出身の工学士・小林柏次郎は自ら実地を踏査し、10月10日に水道敷設の設計書を市に寄贈しました。対象水源は多鯰ヶ池、樗谿・小西谷・円護寺等付近の渓谷および千代川・雨滝川(神垣付近)の3ヶ所でしたが、この場合も多鯰ヶ池は水位の点で、樗谿等は水量の点で実施が危ぶまれました。さらに袋川支流(大茅川)を水源と定めて、神垣付近で堰き止める案が浮上したところ、これを聞いた地元の人々から用水期に干害を受けることを理由に猛反対を受けました。


B三田善太郎の美歎水源地案

美歎堰堤碑美歎堰堤碑

明治44年8月、当時の藤岡市長は理学士・三田善太郎に委嘱し、新しい候補地の選定に入りました。水質、工費、維持費を検討の末、翌年2月24日の市会において水源地を美歎地内とする案が全会一致で承認されました。6月には内務省の認可がおり、大正元年に着工して、同4年9月に通水を開始しました。10月には竣工式が行われ、山陰地方における近代水道第1号施設となりました。


C水源地の決壊

美歎水源美歎水源

大正7年9月14日、鳥取地方を空前の大雨が襲いました。貯水池は刻々に増水し、午後八時頃には堰堤55mの上を溢れ、根底から崩れ落ち、池の溜水はたちまち一大奔流となって美歎集落に殺到しました。民家10戸と土蔵5棟を押し流し、死者8人を出す大災害を引き起こし、近代水道設備を誇る水源地が、わずか3年足らずで台風の猛威の前に崩壊しました。


D水源地復旧と美歎砂防堰堤

美歎砂防堰堤美歎砂防堰堤

大正8年、崩壊した水源地はコンクリート造りの強固な堰堤に改修することとなり、3年後の大正11年6月28日に竣工して、市民の水道使用量は竣工前の約1.5倍と大幅に増えました。しかし、再生して約50年が経過した頃、堰堤の老朽化と人口の増加に伴い他の水源地が建設されたことで、昭和53年4月1日に貯水を放流して全施設の休止となりました。その後、歴史的に価値と周辺環境の良さから、地域住民の憩いの場として再利用する構想が生まれ、補強工事を行い、砂防堰堤へと生まれ変わりました。