長通律師が開創し元和元年(1615)頃に秀岩と称する留守居僧が再興して曹洞宗長通寺と改めたとも、山中鹿之助の焼打ちにより伽藍を焼失したため岡益の奥地、奥土居に再建して万松山長通寺としたとも伝えられています。住職の牛尾得明師は伝説化されていた広壮な石堂に着目して研究調査をした結果、安徳天皇御陵墓と断定し、安徳天皇御陵参考地としての認可を得たため、これを機に永劫に御陵墓をお守りするため寺を奥土居の地より現在の岡益の地に移転しました。また、前庭には志賀直哉が石堂を訪ねた際に書き残した「妙」の字が岡田美子の讃歌とともに石碑に刻まれています。 |