因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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因幡国府と古代の国づくり 


@因幡国庁跡

因幡国庁跡因幡国庁跡

国府・国庁とは律令制下の官庁が置かれた場所のことです。国毎に交通の要衝を占めた約900m2の条坊制の市街地を形成して周囲に土塁を巡らし、国分寺や総社などを近傍に設けられました。詳しい年代は明らかになっていませんが、一般的には大化2年(646)の勅が国司制度の始まりといわれ、諸国の国府はこの頃に設立されたものと考えられています。
因幡の国府は、『因幡民談記』や『因幡誌』などに地名の由来や平らな土地、一の宮や国分寺跡が近くにあることから「庁」のあたりにあったと記され、その存在は知られていましたが、昭和47年から52年までの発掘調査によって明確になりました。国庁跡は中郷および安田地区の水田下で発見され、正殿跡、後殿跡、南門跡などが確認されています。国庁域は東西約150m、南北213mの面積約32,000m2が国の史跡に指定され、その中心部分については史跡公園として整備し、正殿跡、後殿跡、南門跡の掘立柱跡には円柱等が埋められ、市民の憩いの場として生まれ変わりました。


A国分寺跡

国分寺跡の磁石
国分寺跡
の磁石

国分寺は、天平13年(741)に聖武天皇が鎮護国家を祈念して国毎に建立された勅願寺です。国分寺縁起によれば、寺域二町四方(215m2)寺領墾田一千町を領し、七堂伽藍にして七重の塔を配し、本尊は行基作の薬師如来木像であったと伝えられています。因幡国分寺は、現在の国分寺地区内のほとんどがその寺域と考えられ、南方の水田から見つかった塔の礎石が国分禅寺境内に置かれています。発掘調査により南大門跡、塔跡が確認され、金堂は細男神社境内辺りと推論されています。


B国分尼寺跡

法花寺門礎法花寺門礎

国分尼寺は、聖武天皇の勅願によって国分寺とあわせて全国に建立された尼寺です。正式には法華滅罪之寺といい、法華寺とも呼ばれています。因幡法華寺は、国分寺地区から東側約600mのところに法花寺地区があり、地名と水田の中より出た礎石によってこの地が寺地であると想定されます。法花寺地区東南端、今木山の西の麓に立つ「南無妙法蓮華経」の題目石の下に「日常上人産湯の井戸」といわれる泉があり、その左上の狭い平地にある手水鉢の奥に水溜めを彫った縦長の石が置かれています。これが現存する唯一の法華寺の礎石と伝えられ、『因幡誌』にある石の見取図ともほぼ一致しています。


C万葉の河原

万葉の河原万葉の河原

『岩美郡史』に「因幡山の南麓を流れる川を因幡川という」という記述があり、甑山付近の河原を「万葉河原」と呼び、その下流を「ケデン河原」と呼んでいます。この辺りには、国庁跡として大伴家持の歌碑のある「庁」や「中郷」「国分寺」「法花寺」と呼ばれる村があり、昔から多くの伝説などと共に、集落の興亡が語り継がれているのです。
「ケデン河原」と呼ばれている辺りは、武内宿禰が因幡国遠征のとき、先住のケデン族を制圧した所と言い伝えられ、ケデンというのは「血田」という地名とされ、あるいは「計天牟」「毛田」「仮田」「仮殿」とも記されています。