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伊福吉部徳足比売と古代の文化 


@伊福吉部徳足比売の墓跡

伊福吉部徳足比売伊福吉部徳足比売


伊福吉部徳足比売の墓跡伊福吉部徳足比売の墓跡

無量光寺裏山の岩常山の中腹に、伊福吉部徳足比売の墓跡があります。徳足比売は豪族・伊福吉部氏の娘で、が宮中に貢進して文武天皇に使えていた采女(女官)であったと考えられています。
直径約26cmの鉢形をした青銅製の骨壺の上面には、放射状に16行、108文字が刻まれ、埋葬の由来を書き表しています。それによると、徳足比売は先帝文武天皇の御代、慶雲4年(707)2月25日に従七位下の位を賜り、和銅元年(708)7月に大和の地で亡くなって、同3年の10月に火葬されて翌月13日に故郷の因幡の国に送られ、この地に葬られたということです。
これは我が国で行われた火葬法の歴史を知る上で貴重な遺構として、墓跡は大正13年12月9日に史跡として、骨蔵器は昭和30年2月2日に重要文化財として国の指定を受けました。


A岡益の石堂

岡益の石堂岡益の石堂

凝灰石の切石を利用した石造構築物で、6m四方の羽目石を並べた基壇の上に、高さ約2m、厚さ約0.4m前後の壁石で囲った石室が造られ、その中央にエンタシス形式の高さ1.7mの円柱が立てられています。その上に載るマス形の中台の下部には古代ギリシャ文化の影響を受けた忍冬うずまき蓮弁による浮彫りが施され、大陸的色彩の強い7世紀頃の建造物と推定されています。『勝見名蹟志』には石堂の由来や寛文2年(1662)の大地震で倒壊したことが記され、『因幡誌』では図示しながら規模・形状と当時の様子を伝え、再三の地震による損壊の程度や石堂に関する口碑などについても記されています。
地元では古くからいくつかの言い伝えがあり、一説には、安徳天皇の御陵墓と伝えられ、明治29年に安徳天皇御陵墓参考地として指定を受けました。石堂の背後にあるおびただしい数の五輪石堂は、天皇につき従った平氏一門の墓とも伝えられています。また一説には、武内宿禰の御廟といわれ、他にも岡益廃寺の塔跡などが考察されています。


B岡益廃寺

石堂の森にあり、昭和初期に古瓦や礎石が見つかったことから、寺跡として認められるようになりました。川原寺に類似した軒瓦の出土により7世紀末〜8世紀初頭に創建され、8世紀前半に講堂が整備されて盛期を迎え、9世紀以降に廃絶したものと考察されています。 
石堂から西へ約6mの位置から掘り込み地業の跡が検出され、金堂跡と考えられています。金堂と石堂は中軸線を揃え、また金堂から約7m北側では講堂と思われる掘立柱建物跡が見つかり、回廊状の遺構が取り付くなど、石堂は、変形の法起寺式伽藍の塔であった可能性も示唆されています。


C梶山古墳

毎年4月21日の例祭には、池田光仲公により創始されたといわれる県指定の無形文化財「麒麟獅子舞」が神前に奉納されます。獅子頭は因幡地方特有の一本角で、猩猩が先導する中、笛、鉦、太鼓の単調な調べに合わせて朱色の布を纏った獅子が厳粛に舞い踊ります。
宇倍神社御幸祭祭具は、例大祭にあたり、御神事並びに祭礼行事として伝承されている大名行列に使用されるもので、御神輿の他23点あります。境内に建設された収蔵庫(徽古館)に保管されています。明治年間、調製された大神輿をはじめ、県指定文化財の獅子舞に使用される江戸時代彫刻の獅子頭・猩猩・楽器あるいは樗谿神社から譲り受けた祭具・武具も多数あり、また正徳4年(1714)寄進の銘ある旧池田藩主・藩士による鉾、平鉾、大鳥毛、長槍等も合わせて保管されています。


D石舟古墳

世紀後半から7世紀前半頃に造られた直径約10mの円墳と推定され、横穴石室の玄室に凝灰岩をくり貫いた家形石棺が安置されています。石棺の蓋は2枚ありましたが現在は1枚だけ乗せられており、上の方が扁平な屋根型に加工され、横には方形の把手が造られています。安徳天皇が岡益へ落ち延びてきた伝説にちなみ、祖母で平清盛の妻・二位の尼の墓との伝承も残されています。