因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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袋川流域の祈り 「神社」 2 


[国づくりにまつわる神を祭神とする神社]

細男神社

国分寺地区の東南隅の同じ平地内に鎮座し、因幡国分寺の寺域内でもあり、この神社と国分寺の建立についてその歴史背景など多くの問題が推論されています。祭神は少名毘古那神で、大国主神とともに国造りに奔走された神であり、身体は小さいけれども敏捷で忍耐力に富んでいたことから「細男」、その転化によって「さおと」と命名されたものと思われています。


白髭神社

伝承によれば滋賀県甲賀郡北仙村大字三大寺より勧請して当三代寺に遷宮したといわれています。ただし、「三代寺」の地名はすでにあったと思われ、また、猿田毘古神を祭神とするのは、一説には、古代、大陸からすぐれた新羅系の人々が日本各地に渡ってきてこの神を祭ったといわれています。それらの子孫が宇倍神社の真南にあたるこの地に神社を造営し、この両社を結ぶ線を条里制の基礎として国府の町づくりに参画したとも考えられています。


上麻生神社

齢数百年と思われるモチの木や、ムクの巨木、杉の林に囲まれ、古くからこの辺りの中心的存在であったことがうかがわれます。室町時代に高岡神社と合併して神事が行われ、この地がお旅所となって賑わったと社誌に記されています。祭神は高岡神社と同じ須佐之男命で、昭和25年に上麻生神社として分離独立し現在に至っています。


玉鉾神社

南に石山を背にして袋川を臨み、本殿に接してムクや銀杏の大木が伸び上がっています。かつては「鉾大名神」と呼ばれ、社名の由来が古代に神器と崇められていた玉と鉾によることや、国府平野の東端に位置して清冽な水に恵まれていたことなどから、古くから尊崇されていた神社であると考えられています。近くの二社と一緒に盛大な神輿渡御の神事が行われたこともあって、そのところは三輿と呼ばれています。明治7年に鉾大明神を玉鉾神社と改称し、大正8年には水の神様として信仰されていた河原谷神社を合祀しました。


糸谷神社

拝殿の横は昼でも暗いほどの杉の大木で覆われ、特に右側には大人で三抱えもあると思われる杉の巨木が立っています。『因幡志』によると、古くは三王七者権現と呼ばれていました。


高岡神社

古くから「牛頭天王」と呼ばれ、播州(兵庫県)の広嶺神社の御分霊を奉祀したといわれています。はじめは高岡、宝殿ヶ平に鎮座していましたが、後醍醐天皇の元亨2年(1322)(『鳥取県神社誌』)に現在地に移し奉り、(『因幡誌』では正和3年(1314))牛頭天王は国中の天王社中第一の宮として崇敬を集めました。ツバキ・タブなどの社叢は昭和34年に県の天然記念物に指定されました。


太田神社

岡益と清水の中ほどの山麓に鎮座し、古くは太田大明神、太多羅大明神とも呼ばれ、甑山をモッコで担いで置いてきたとされる神様でもあります。毎年近くの三社と合同して神輿渡御の神事を執行しており、その旧地を水越(三輿)といいます。清水神社と谷村神社を合祀し、本殿右側には見事な彫刻が施された旧社殿が厳かに保存されています。


高鉾神社

山根橋を渡り清水・岡益へ延びる通りのそばの鬱蒼たる木立の中にあり、境内には樹齢数百年にも及ぶタモの老樹が四方に枝を広げています。古くから高鉾大明神と呼ばれ、また境内にある山根神社は、明治元年に集落の背後にある高い山あいからこの地に移されたと記されています。1m四方の神殿は正面の角座の格子の上に神鏡がかかり、その上に高鉾神社と墨書されていて四角の龍神と左右前の三面にある瑞雲・松亀・鶴・武神・寿老人などの彫刻は精巧を極めています。


神垣神社

神垣地区にある下の神社で、東のはずれから山すその道を東に向って約500m進み、田んぼの中の道を伝うと神社の前に出ます。不思議なことに鳥居がなく、60段ほど石段を上りきると神殿と拝殿があり、その下に籠り堂があります。神殿の牡丹や唐獅子、龍などの彫刻からは時代を経た重々しさが感じられます。


手見神社

雨滝街道の神護入り口下手の山沿いに鎮座していた須佐之男命を祭神とする神社でしたが、平成14年6月に酒賀神社に合祀されました。


殿村神社

雨滝街道の神護入り口下手の山沿いに鎮座していた須佐之男命を祭神とする神社でしたが、平成14年6月に酒賀神社に合祀されました。


神護神社

創立年代、沿革とも明かではなく、古くから武王大明神、聖大明神・緑大明神と呼ばれていましたが、明治7年に神護神社と改められました。
神護地区を見下ろす小高い山腹に建ち、昔、松島神護兵衛という神主がこの地で大茅郷の一ノ宮、酒賀神社の社領を治めていたという言い伝えが残り、中世から戦国時代の記録にも神護神主と記されています。
旧暦2月9日の御祷の祭には、神護の男が榊をかつぎ、本殿から古い御幣をいただいて太鼓をうちながら当番の宿の家まで行列するという神事が、今も受け継がれています。


上荒舟神社

上荒舟地区の舗装道路をあがり、字「宮の後」の杉木立の中に鋲座しています。切り石の石段を上ると参道も切石畳の200坪程度の境内ですが、この中に鳥居・献燈・本殿・神楽殿が巧みに配置されています。特に本殿の奥に位置する2m2ほどの厨子は他の神社では見ることのできないものであり、また拝殿には俳句の額が掛かっています。祭神は須佐之男命と稲田姫命ですが、古くから子守権現とも赤松大明神とも称されていたことから、正徳年中(1711~16)に3代藩主吉泰公が男子がないことを憂い、この社に祈願したところ霊験著しく宗泰公の誕生をみたとして、藩では米三石を永久に寄進することになったといわれています。明治7年に上荒舟神社と改称されましたが、鳥居にはもとの両神社の額が掛けられています。


楠城神社

約120段の急な石段を登ると拝殿があり、その後方に5m四方のサヤ堂が渡り廊下で繋がれ、堅木で造られた厨子と流れ造りの神殿が建っています。古くは三元荒神と唱えられていましたが、明治7年に楠城神社と改称されました。地元では八幡さんと荒神さんとの合祀と言い伝えられており、また別に龍王さんと呼ばれる神社も祭られているといわれています。


石井谷神社

本殿も神楽殿も集落を背に南方を向いて建てられています。なぜこのように建っているのかは明らかではありませんが、『鳥取県神社誌』によると、境内にあった松の老木と朴の大木が枯れたため切り倒した時、この朴が有名であったので朴の木大明神と呼んで尊崇したとあります。このため集落では朴の用具は使わず、下駄の歯に朴を使うのが流行したときも大明神を足下にすることを嫌って使うことはなかったといわれています。


木原神社

「熊野三社権現」を勧請していたので古くは熊野大神宮と呼ばれていましたが、明治7年に今の名に改称しました。境内はさほど広くありませんが、石段に河原石を敷き詰め、拝殿前にある大きな夫婦杉が厳かな雰囲気を漂わせています。根元の太さは約8m、高さは約40mあると思われますが、昭和34年の伊勢湾台風によって老樹の上部が折れたため、雨露を防ぐために銅板をあてて枯れるのを防いでいましたが、平成16年の台風18号により二本のうちの一本が途中から折れてしまいました。また、9月15日の祭の日にこの社頭に立てられる大幟は他に類を見ないものです。神社下にある古さびされたお堂が「神人共楽」の面影をしのばせ、下木原の「茅ん堂」とともに歴史の重さをたたえています。


酒賀神社

栃本と上地集落の中間、人里離れた閑寂な丘の上にあり、『因幡誌』によると「すがの山の麓にある菅野大明神」のことであると書かれています。
大草 郷十二ヶ村の氏神として郷中一ノ宮と呼ばれ、創建は不明ですが、貞観3年(861)に従五位下、後に正五位を授けられています。天保10年(1839)に改築され、本殿は千鳥破風のある権現造りで、正面の桁の上の龍や両側の酒天童子の彫刻は精巧で見事です。社名のように酒の神とも、禍をはらい、心清々しい神であるので須賀の神ともいわれています。